樹木希林の言葉・語録・名言(生きること)

私はつねに個人的にものを考えるんですね。世の中はどうだというふうには考えないんです。…統計なんていうのは、私は全然信じてないの。
(1987年7月)

私は物を消費することに真実はないと思っていますからね。だから私は人間でも一回、ダメになった人が好きなんですね。…そういう人は痛みを知っているんですね。だから、いろんな話ができると同時にまたそこから変化できるんです。
(1995年7月)

形に残る新しいものは、めったに欲しいとは思いません。皆さん驚かれるのですが、家のテレビなんて、いまだにブラウン管ですよ。人間もそれと同じ。十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるってことなんじゃないでしょうか。こういう感覚を持つようになったのも、病気になって、命が限りあるものだということを認識してから。
(2014年5月)

今では、仕事のマネージメントまで、自分ひとりでしています。誰かを雇うと、その人の家族の生活も抱え込まなければなりませんが、来年のことがわからない状態なので責任が持てませんからね。ともかく自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末すること、それが最終目標かしら。
(2014年5月)

自分のためには一人のほうがむしろ気楽なんですよ。でも、うちの娘なり、婿なり、その子供たちが、私の死に際を実感として感じられる。ずっと離れて暮らしていると、あまり感じられないのですね。「人は死ぬ」と実感できれば、しっかり生きられると思う。
(1996年9月)

終了するまでに美しくなりたい、という理想はあるのですよ。ある種の執着を一切捨てた中で、地上にすぽーんといて、肩の力がすっと抜けて。存在そのものが、人が見た時にはっと息を飲むような人間になりたい。形に出てくるものではなくて、心の器量ね。
(1996年9月)

いまの女の人って、子供を踏み台にしちゃうでしょう。子供も自分の飾りを満足させるナニカだと思ってる。だから人と比較して落ち込んだりするんであって、子供は飾りの材料にしないほうがいい。
(2001年7月)

生きるというのは、いろんなところをくぐり抜けて、どう墓穴に入るかという道。どうやったって結果はついてくるから、その時時で納得するやり方をするしかないですよ。その途上で結婚でも別れでも仕事でも、しっかり傷ついたりへこんだりすれば、自分の足しや幅になる。
(2001年7月)

人として生まれたからには善も悪も欲も全部ひっくるめて、ちょっと削ぎ落としたところで着地したいというのはあるのね。最後は樹木希林という”皮”も脱ぐ。
(2001年7月)

私の場合は特に生と死に関して境がないような感覚があるんですよ。死が特別違う形になるという感覚がなくて。
(2002年2月)

今生はこういう顔をして生まれてきたけど、次はまた違う姿かもしれないし、魂の着せかえ人形じゃないけど、さほど「私の最期」と考えなくてもいいなと思ったりもするんです。
(2002年2月)

 

どんな素材でもそれが光る場所に置いて活かしたいと思うんですよ。
(2002年8月)

どんなに好きだと思っていても、それが活かされない場所にあったら、うっとうしいだけでしょう。
(2002年8月)

自分の身体には責任をもち、あんまりいい加減な生活はしないようにしようと思っています。長生きしたいと思うわけではないし、年をとるのはちっとも苦ではないんですよ。ただあたふたせずに、淡々と生きて淡々と死んでいきたいなぁと思うだけです。
(2002年8月)

私は不動産が好きで、家に対しては少なからぬ執着があって。ただ、その執着もル・コルビュジエが、彼の好きな地中海を望む場所に、自分たち夫婦が住むための小屋をつくったという話を聞いたとき、すとんと抜けたんです。禅で言う豊穣ではないけれど、あれだけの建築家がやりたいことをやり尽くした末に、最終的にたどり着いたというその小屋を見たとき、こちらまで身軽になったというか…。だから今は自分がこの世につないでいるあれこれの鎖を、欲望も含めて一つずつ外している感じですね。
(2008年1月)

みんないずれ死ぬんだけど、死ぬまでの間に、残したくない気持ちを整理しておくといいですよね。会っておくとか、話しておくとか。
(2008年7月)

年をとるって好きなの。若くなりたいなんて思わない。不老長寿の薬なんか発明されたら、即ヤメテ〜!(笑)
(2008年7月)

(出典元:『一切なりゆき』〜樹木希林のことば〜)